わたしもその存在を知ったのは最近なのですが、河相我聞さんのブログが非常に面白い(興味深い)です。
Twitterで拡散されて知った記事は築50年の実家をリフォームした話なんですが、今日はそれではなくわたしの心に深く突き刺さった記事についての話。
これ、是非読んで欲しい記事です。
「自分を信じること」っていうのは、楽……ラクをする、という意味ではなく限りなくストレスフリーにニュートラルな気持ちで生きていくための重大なヒントだとわたしは思います。
以前記事にも書きましたが、少し前までわたしは自分の軸を常に他人に預けて生きてきました。
これはある意味では「ラク」なことでした。
自分のことを自分で考えようとせず、誰かの顔色で自分の行動を決めればいいんだから。
でも、主軸が自分にないということは自分を信じていないわけです。うまくいっているときはいいけど、ちょっとでも何かあったらすぐ軸がブレて不安定な状態になります。
相手からのメールの返信が来なかったら「嫌われたのかな」って思ったりね。
わたくしの自分を信じる力は半端ありません。 人を信じる力も半端なく、様々な経験もしましたが、これは自分を信じているので、いつも「何とかなるだろう」と自分は乗り越えられると思い込んでおります。おそらく、「何かを信じる時」に自分を本当に信じている人と、自分を信じてない人の違いはかなり大きい気がします。 例えば、自分を微塵も信じてない人は他力本願でなんとかしようとする所が多いと思うので、変に人を信じたり、変なモノを信じて大変な事になった時、引き返す事や、考えを変える事が出来なかったり、人のせいにして思考が止まってしまったりするのではないかと思うのです。その結果、問題が長引いてしまったり、その事で人生が不安定になったりするのでは、と。逆に、本当に自分を信じている人はすぐに間違いや、おかしさに気がついて、軌道修正をしやすく、それを経験や、バネに更にパワーアップする人が多いと思うのです。
何故、学校の勉強が超絶出来ないのに四十二歳まで特に問題なく生きてこれたのか - かあいがもん「お父さんの日記」
最初にリンクを貼った記事から引用です。
これ、まさにそうなんですよね。
主軸が自分にない(自分を信じていない)と、「裏切られた」って発想になりがちです。
相手になんとかして欲しい、「xxしてくれない」ってなるんですよね。なんでメールの返事くれないの?とかね。
人を信じることも同じです。自分を信じているわたしが選ぶこと。
わたしが誰かを信じることと、誰かがそれに応えるか応えないかは全くの別問題なのです。
誰かの行動によっていちいち影響を受けて不安定になるのは、他人依存から抜けられていない……相手を、自分を信じ切れていないということなんだと思います。
信じてたのに裏切られたって思う時は、恐らく信じ切れていない状態だったんだろうと思います。
残念なことに信じていた相手に裏切られるということはないとは言い切れませんが、自分が相手を信じきれた時は、「自分が信じ抜いた」という事実は揺らぎませんし、自信に繋がるんだと思います。
リスクヘッジといえば聞こえはいいけど、「裏切られるかもしれない」と疑い続けて生きていくのは疲れますし、実際に問題が起きた時にそれについていつまでも引きずってしまいます。
そうやって自分を信じることができれば、おのずと自分のことを好きになれる気がします。
自分の心だったり自分自信とどれだけ向き合って自分の事を知ろうと出来るか、という事ですからね。 これ、自分の事が相当好きじゃないと自分の嫌なな所やダメな所から目を背けてしまうと思いますから。 好きになるとそんな自分にも目を背けないで、しっかり向き合った上で、「そんな自分も良くね?だって人間だもの」と思います。
何故、学校の勉強が超絶出来ないのに四十二歳まで特に問題なく生きてこれたのか - かあいがもん「お父さんの日記」
わたしは自分に自信なんてありませんでしたし、当然自分のことなんて好きじゃありませんでした。
というか、「自分を好きってどういう状態?」って思ってました。
先日の意見交換会の記事をご覧下さった方ならわかっていただけるかと思いますが、良くも悪くもアクが強いというか、人に嫌われやすい性質ですし、コンプレックスの塊でしたから。
まあそんなんだと、しょうもない男ばっかり引き寄せるわけです。
もしくはわたしと付き合ってるうちに相手をしょうもない男に育て上げるか。
でもそうは言っても長年自分を好きだと思わず生きていたのに、簡単に自信がつくわけないんです。方法もわかりません。なにせ、自分を責めることしかしてこなかったんですから。簡単に自分を褒めるなんて出来ません。
精神的に自立したいとか、主軸を自分にとか、文字にすれば簡単ですがどうやっていいかわかりません。
わからないので、わたしはひたすら愚直にスカートを穿き続け、お化粧をして、毎日笑顔で挨拶し続けました。
へたくそな笑顔でも、笑うというのは気持ちがいいものです。
スカートを穿き続けていたら、自分が女性になった気がしました。
常に「自分が選ぶ」ということを意識して行動しました。ちょっと喫茶店でメニューを選ぶときも「わたしが」何を飲みたいかを意識的に自分に問いかけました。
「わたしが」楽しいか楽しくないかということを自分の心に問いかけ、自分がしたくないことはなるべくしないようにするか、どうしてもしないといけないときは「わたしはこれをしたくないけど仕方ないからやっている」ということを意識しました。
自分より他人を優先してしまいがちな性質があるので、つい自分以外の誰かと行動する時は相手を喜ばせようという意識が働いてしまうのですが(それが故に失敗もするのですが)、それについても自分の性質だと受け入れることにしました。自分がそうしたくてしているわけで、相手に頼まれたわけじゃないですからね。
全ての行動を自分が選んでしているという意識を持って日々を過ごしていると、だんだん自分を認めることができるようになりました。
他人からの自分への好意にも気づけるようになったし、ありがたく受け取れるようになりました。
もちろん、こんな風に意識して行動しないでも自分を信じられて自分を好きでいられる人のほうが多いでしょうし、わたしみたいに頭でっかちに考えて納得しないと進めないのは随分とややこしい生き方に見えると思います。
でもそうやって愚直に訓練していくことで、わたしは昔より格段に楽に楽しくごきげんさんに生きられるようになりました。
もちろん、(これはたとえ話ですが)すきなひとからメールの返事が来なかったら「ううー」って思う日もあります。
でも、「ううー(嫌われちゃったのかな)」から立ち直るまでの時間も格段に短くなりましたし、「嫌われたなら嫌われたで仕方ない。わたしがコントロールできるのはわたしだけなのだから」って思えるようになりました。
なんならとても無敵な気持ちで「あのひとがわたしを嫌いになるわけがない」とすら思える日もあります。
それはどれも、わたしがわたしを信じられるようになったからだと思います。
だって、わたしはわたしにしかなれないんだもの。わたしが好きなわたしを好きじゃないって思われたらそれはもう仕方ないよね。
自分自身を商品だとした場合、その商品の営業マンでもあるわたしが「これはいい商品だ!」って思えなかったら誰も手に取ろうとは思わないでしょう。自信をもってオススメできる商品だからこそ、買い手もつくわけです。
河相我聞さんが最初からご自身のことを好きだったのかどうかはわかりませんが、自分を好きで信じていればたいていのことはなんとかなるとわたしも思います。
なんでも自分の思い通りにはいきませんが、自分の心と向き合って自分の心の声を聞きながら軌道修正していくと、たいていのことはうまくいきます。最終的には自分が満足する地点に向かうことができると思います。
自分をどんどん信じる様になって絶大な自信になり、そんな自分を更に好きになって行きます。
何故、学校の勉強が超絶出来ないのに四十二歳まで特に問題なく生きてこれたのか - かあいがもん「お父さんの日記」
自分をどんどん信じるようになるために、少しずつ積み上げていくのです。
わたしにとってそれは、「何かを愚直に続けること」でした。
続けられた自分を「やればできるじゃん~~がんばったじゃん~」って思えることをひとつずつ石垣を積むように一段一段積み上げて、振り返ったら結構自分のことが好きになっていました。
なんで今日はこんな記事を書いてるかというと、ひっそりと先月半ばから30日チャレンジをしていて、わたしはブログを30日間毎日更新するって決めてたんです。
これがわたしにとって継続30記事目になります。
書くことないなーって思う日もあったし、予定があって書く暇ないなーっていう日もあったけど、予約投稿もほぼしないで(ほぼというのは、その日に書いて数時間後に投稿したことはあったので)毎日愚直に書き続けることができて、わたしはわたしの石垣をまたひとつ積むことができました。
えらいなーわたし!よくがんばったな!
色々えらそうに書いてきたけど、わたしが自分を絶大に信じることができるのは今のところ「わたしは晴れ女」っていうことだけなんですけどね!
これに関しては友人から苦情が来る(晴れすぎて暑いなど)レベルで信じてます、自分を。
自分に自信がなくて下を向いている人や、恋をして迷子になりかけてる人が少しでも上を向けるお役に立てればいいな。
大丈夫、 たいがいのことはなんとかなります。
わたしの大好きなひとの口癖もそういえば「たいていのことはなんとかなるなる」だったな。
「根拠のない自信は人を救う」って酔っ払って言ってたその言葉はわたしの御守りです。