2022年陸マイルの旅

2017年から陸でマイルを貯めつつANA隠密修行をしたわたしの趣味の旅行(遠征)、買い物、グルメ、つれづれ日記。

自分の周りに溢れている愛は当たり前なんかじゃないし、つらい時こそ笑顔でいること

きっとこれは明日になったら書けないから、書きなぐる。

今月はいろんなことがあって、楽しいことも嬉しいことも素敵な出逢いもたくさんあった。

でもその反面、わたしにとってはつらいなと思う出来事もある月だった。

それは日を追うごとに悪化していってどうしようもないところまでいってしまった。

どうしてこうなったんだろうとか自己嫌悪にも陥ったし、反省もしたし、自分の欠点というか悪いところよくないところととことん向き合った。

でもやっぱりどうにもならないものはどうにもならなかったし、わたしはわたしのままだった。

それについての善し悪しについてはここで議論はしない。

 

わたしは考え始めると途中で考えるのを「やーめた」ってできないタイプだから、とにかく自分が考え続けることに飽きるまでとことん考えてしまう。

それをある人には「真面目」と笑われたけれど、わたしはちっとも真面目じゃない。

肩の力を抜くのがへたくそなだけだ。視野狭窄。

でもわたしは以前何かの記事でも書いたかもしれないけど、そういう自分が嫌で、結構いろいろともがいて今のわたしになった。

良くないところもたくさんたくさんあるけれど、今の自分のことは結構気に入っている。

自分が幸せじゃなかったら周りの人も幸せにできないと思うから。

でも最近のわたしはたぶんちっともハッピーオーラが出せてなかった。

 

そんなこんなで歳のせいか涙腺がゆるゆるになっているわたしは、友達の前で泣いた。

友達はそんなわたしを見て、わたしのかわりに怒って、泣いてくれた。

それを見てわたしはますます泣いた。

同僚が、わたしが席を外している間にわたしの仕事を少しやっておいてくれた。

その引継ぎを聞きながら、わたしはありがとって言いながら泣いた。我ながらかなりの不審者だったと思う。

友達が美味しいものを食べに行こうって誘ってくれた。

友達が旅行に行こうって声をかけてくれた。

楽しい飲み会に誘ってもらって、たくさん笑った。

異動しちゃっただいすきな友達がわたしに会いにわたしの部署に来た。

 

そう、こういう時に忘れていたことを思い出す。

わたしの周りは優しさとか愛情で溢れていて、それを与えて貰えることは当たり前なんかじゃないってことに。

どうしてわたしの周りの人たちはこんなにも優しいんだろうっていつも思う。

それをわたしは残りの時間全てを使っても返しきれるんだろうかって。

だってわたしはいいオトナなのに職場で泣くし、落ち込むととことん落ち込んで、自分勝手でわがままで、甘えただ。

それでもこんなわたしを好きになってくれる人がいるっていうのは奇跡みたいなもので、当たり前のことなんかじゃない。

しかもこんなダメダメなところも許容した上で、好きでいてくれるんだから。

 

それはありのままの自分でいいとか、そういう意味じゃない。

良くないと自分が思うところはなおして良くしていきたいし、留まり続けるつもりはない。

 自分の好きな人たちにふさわしい自分であり続けたいから。

 

つらい時こそ笑顔でいることを、わたしは大好きなお母さんから教わった。お母さんとお別れした時だ。作り笑いでも泣きながらでもなんでもいいからとにかく笑顔でいたら、やっぱりその時も自分の周りの人たちの優しや愛情に溢れていて、悲しいけれどわたしは幸せでもあった。

笑顔でいることは、つらい出来事にフォーカスを当てて狭くなった視野を広げてくれることだとわたしは知った。

 

自分に向けられる愛情は無限じゃない。当たり前のものでもない。自分のせいで、あるいは予期しない出来事によってある日突然なくなってしまう。

それをわかっているつもりでも、つい忘れそうになってしまう。

身近にいる人の愛情ほど当たり前に享受してしまいがちだから、わたしみたいな鳥頭は毎日心の中で感謝の言葉を唱えるくらいがちょうどいいのかもしれない。

 

つらい時にどうやって浮上するかは人それぞれだけど、わたしはこうやってわたしを好いてくれる人の優しさに触れた時浮上する。

なにもわたしは自分が人気者だの、愛は地球を救うだのっていうことを書きたいわけじゃない。

でもかつて自己肯定感が地面に埋まっていたわたしにとって、こうやって人の優しさに気づけること、それを幸せな気持ちと共に受け取って感謝できることは成長でもあるし自分セラピーでもある。

自分を傷けられるのも、自分をごきげんさんにできるのもわたしだけだ。

以前のわたしならクヨクヨしっぱなしで自分を責め続けて、そばで心配してくれている人の気持ちにも気づかず自分のことでいっぱいだった。

今もまだその気はあるけれど、それでも自分をごきげんさんにするためにはどうしたらいいかを考えられるようになった。たとえその時は身がちぎれる程痛くても、鈍い痛みをずっと抱え続けるよりも未来のわたしはごきげんさんになれるはずだ。

だから今までできなかった選択をわたしはできた。つらいけれど。貰った優しさと笑顔と愛情だけを心の中の宝箱にしまって持っていく。

わたしはいつでも幸せでいたいだけなんだ。好きな人たちと笑っていたい。

 

もし今これを読んでいる人の中に、どうしようもなくつらい気持ちを抱えている人がいたら、ちょっとだけ周りを見渡して欲しいなって思う。

もしかしたら隣で心配そうにあなたを見ている人がいるかもしれない。離れたところや画面上にいるかもしれない。

もしそんな人いない!って思ったら過去に遡って人から貰った優しさのかけらを思い出してみて欲しい。それすらなかったら、わたしのことを考えてくれてもいい。わたしは隣には行けないけれど、寄り添うことはできると思う。

 

自分を否定するのはとても簡単で、自分を認めて好きになるのって、自信がない人間からしたらすごく大変。時間はかかるし、抵抗感は半端ないし、まずどこから自分を褒めたらいいかわかんない。

昔の人がお城を作るために石垣を積み上げていく、そんなイメージ。気が遠くなる。

だけど「わたしなんか」って人の優しさから目を背けて受け取り拒否をするよりも、自分にそんな資格がないように例え思ったとしても「ありがとう」って笑顔で受け取りサインをする方がずっとずっと幸せで、生きるのが楽になった。

俯いていた顔をあげた時、世界は優しくて愛情に満ちていると気づいた瞬間の景色はとっても綺麗だよ。

 

わたしにそのことを思い出させてくれたわたしのお友達に、直接こんなこと言えないけど。

でも忘れたくないから、書き留めて全世界に公開しておく。

これはわたしの文脈の、物語。

 

 

ありがとう。だいすきです。