高畑勲監督が亡くなった。
わたしは「かぐや姫の物語」をはじめて観た時とても刺さって、見ながら嗚咽をこらえることができなくって最後のほうはわんわん泣いた。
ただ、自分の好きな人と笑いあっていたいだけなのに、そんなささやかなはずの願いはかぐや姫にとっては絶望に匹敵するほどの難しい願いで叶うことはなかった。
いろんなところを抉られたこの映画の感想をわたしは言語化できなかったんだけど、それを言語化してくれたような感想があって、久しぶりにそれを読んだ。
誰が書いたか覚えてなくて、今日何年かぶりにこれを読んで、ブログタイトルを見て気づいた。雨宮まみじゃん。
わたしも何度かブログで取り上げてる、高畑監督より一足先にここから旅立った人が書いた文章を読んでいた。
そこからつい、彼女の他の記事も読み始めたら止まらなくなって、止まらなくなったらちょっと怖くなった。
彼女は自分の心の柔らかい部分や脆い部分を赤裸々に綴っていて、そこに共感をおぼえるし、なんならわたしの心の内を書かれているような気がすることもしばしばある。わたしが書くよりも的確にわかりやすくわたしの心の内を書いてくれているんだから、わたしが書くことは何もないとすら思う文章もある。
今日もおもわず遡って読みふけっていたのは彼女の文章に引き込まれて共感したからなんだけど、それを書いた人はもうここにはいなくて、これが書かれたのは古いものだと5年以上も前なんだってことに気づいたらフッと怖くなった。
底が見えない淵から下をのぞいたような気分になって、その淵から手を伸ばされているような怖さだった。
もし自分が今いなくなったら、自分の文章だけが亡霊のように残り続けて、わたしはここにいないのに誰かに読まれるかもしれないのかって気づいたからだ。
高畑監督や雨宮さんみたいに人の心をうつ作品を生み出せる人たちが自分の内にある物語を作品というカタチにしてくれたからこそ、わたしが生まれる前の名作ですら今手にとって涙したり笑ったりできているんだけど、自分の書いたものも同じように残り続けるって思ったらこっぱずかしくなった。
そんなことまで雨宮さんは考えてたのかわからないけれど、自分の中にあるネガティヴな感情をブログに綴るって、衆目に晒される覚悟を持つって凄いことだよなって改めて思った。
わたしにとっての年明け(誕生日)以降、わたしは人から見たらささやかかもしれないけれどわたしにとってはずっと憧れていた夢が叶って、たまに心の中の宝箱をそっと開けてはそのことを思い出して温かい気持ちになるっていうしあわせな日々を過ごしている。
自分を摩耗させるような人付き合いはやめて、わたしはわたしが好きだと思う人のために心を注ごうって改めて思ったり、わたしはわたしが見て知っていることだけを信じようって思うような出来事もあった。
悲しかったり嫌だなって思うことがあっても、ごめんねをありがとうに変えるみたいに考え方を変えれば自分が自分の好きで埋め尽くすにはどうしたらいいかっていう答えが見えてくるんだなって気づいた。
わたしは見栄っぱりだから、誰かに読まれるんだって思ったら雨宮さんみたいに心の深淵ギリギリみたいなところをこういう場所に書くことは出来ない。
でもそうやってギリギリを美しい文章で、映像で、音楽で残してくれる人がいることで救われる人がいる。
もし、わたしが書いたものが誰かの役に立ったりするなら、そんな嬉しいことはないなって、少しだけ思った。
残り続けるって、凄くて美しくて、ちょっとだけ怖い。
雨宮さんのかぐや姫の感想、とても素敵なので是非読んでみてください。
高畑監督のご冥福をお祈りいたします。
にゃぼちゃんブログやめへんでぇ〜(山ちゃんガキ使やめへんで風に)