彼女には好きな人がいた。
友達としてよく知ってから好きになることが多い彼女にとっては滅多にない、まるで出会い頭の事故のような出来事だった。
直感で生きてるくせに頭でっかちな彼女にとって、感情と理性が完全に乖離した恋だった。
恋に落ちるとき、彼女は自分の中のスイッチがカチリと音を立ててONにかわるのがわかる。
その前に好きだった人の時も、ずっと友達だったのにある瞬間2人で飲んでいた時にスイッチが入る音を聞いた。
今でもはっきり覚えてる。
麻布十番の、タイ料理屋。
でもこの時はスイッチが入る音すら聞こえなかった。
気づいたら嵐の中にいた。
だって、自覚していなかったから。好きってなんなのかすらわからなくなってた。
「これって、好きってことなの?」ともう成人したいいオトナが、そんな子供みたいなことを訊くほどに。
理性が嵐に巻き込まれることに警鐘を鳴らして、「こうであるべき」っていう実際にはなんの意味もない「正しきこと」に沿っていない自分にブレーキをかけようとした。
なのに先にお水という栄養をたっぷり与えられた彼女は、勘違いして、溺れた。
まだキレイに咲いてないのに、私はキレイなお花なのよ。だからもっとお水を与えてねって傲慢なカタチで。
でも悪花にお水をやり続ける庭師はいない。
庭師のことを好きなのにそれを素直に認めようとせずお水を欲しがっていた花はやがて根腐れを起こして、庭師は要求の多い花に疲れて見放した。
そうなってはじめて、彼女の中で吹き荒れていた嵐がようやくおさまった。
同時期に優しくそっと如雨露片手に彼女に寄り添ってくれる人がいた。
皮肉なことに、その人おかげで彼女はようやく、庭師の彼が彼女に愛情という名の水を注ぎ続けてくれたことに気づいたのだった。
そして、彼女が好きなのは自分を好きになってくれる他の誰かではなく、庭師の彼だったということに。
水を注いでもらうには自分がそれに値する花でいなくてはいけないという当たり前のことを忘れてしまっていた。
どんなにお水を与えられてもそれは当たり前のことじゃないってことをすっかり忘れていた。
正確にはわかっていたはずなのに、コントロールができなくなって、暴走した。
わかっちゃいるけどやめられなくてハッピーなのは植木等だけだ。彼女は苦しかった。
キレイに咲いてるからこそお水をあげたくなる。 だからいつでもどこでもキレイなお花でいようと思っていたハズだった。
お水がなかったらお花はキレイに咲かないかもしれないけれど、お水を先に求めるのは彼女の思うキレイな花ではない。
それは相手に合わせるのではなく、1人の時も2人の時も自分の軸足で立っていること。
1人の時でも楽しいけれど、2人だともっと楽しいと思えること。
笑わせてもらうのではなく、笑いかけること。
対等であり続けること。
大好きだけど、大好きすぎないこと。
相手の優しさを当たり前に見過ごさず、それを喜べるわたしでいること。
1日は24時間しかなくて、たとえ結婚してたって一緒にいられる時間なんてたかが知れてる。だからこそ一緒にいられる時間を全力で楽しむこと。
そんな当たり前のことすら忘れて穴の空いたバケツみたいになっていた彼女に、庭師の彼はそれを思い出させてくれた。
思い出した途端、猛烈に彼女は自分を恥じた。できることなら時間を巻き戻したかった。
でも彼女の側に猫型ロボットはいなかったし、別の世界線へタイムリープする能力もなかった。
彼女にできることは同じことを繰り返さないようにすることだけだった。
それと同時に自分を取り戻したら、それまでとうってかわって楽になれた。
燃え盛っていた炎がようやく鎮火して、穏やかな灯火になった。
その時庭師の彼が彼女の手を完全には離さないでいてくれたから、大事なことに気づけたのだと思う。呆れてもなお、優しさのかけらを与えてくれた。
こんな時、男の人は優しいなっていつも思う。だから尊敬と愛情を返したくなる。
人は嫌な思い出は忘れないでいられるが(わたしは3日くらいで忘れてしまうおめでたい脳だけど)、嬉しかったことは思いの外忘れてしまう。
嬉しかったことを忘れないために、彼女は嬉しかったことだけを書き留めている。
「恋人は鏡だって言うけれど、私は彼という鏡を通して自分のことしか見ていなかったんだわ。」
彼女はそう言って、わたしに笑いかけた。
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夜になると虫の声がが秋色に変わってきて、夏が大好きなわたしは夏の終わりを感じてセンチメンタルな気持ちになっていろんなことを思い出したり考えたりしてしまう。
いよいよ秋ですね。