わたしは父親が苦手だ
わたしの父は料理人だ。
おそらく多くの人が名前を聞いたことがあるホテルで働いていたので、土日祝日などの一般的な休日は絶対に仕事だった。
遅い時間に帰宅して、朝はわたしより早いか、わたしが学校に行くころはまだ寝ていた。
だから、わたしは幼い頃からあまり父親と接点がなく育った。
娘だからといって溺愛されるわけでもなく、しかもお互い照れ屋だったので常にある程度の距離を保って生きてきた。
わたしは上手に父親に甘えられなかったし、それは大人になったいまでもそうだ。
わたしはわたしにしかなれないから、よその娘さんが父親にどう接しているのかわからないが、わたしにとって父親は雑談ができて仕事のできる上司のような存在だ。
家にあまりいない父親のことを嫌いにならないよう、母はわたしが父親を尊敬する娘であるように育ててくれた。
その甲斐あって、思春期の女子特有の「お父さんキモい」という時期もわたしにはなかった。
父親の仕事(父の作る料理)を尊敬していたからだ。
料理を食べることと作ることが、わたしにとって父親との唯一の接点だったのかもしれない。
年に1度、両親は旅行に連れて行ってくれた。
そこでもわたしはあまり父と親しく話した記憶はないが、いまのわたしが旅行好きになったのは両親のおかげだ。
わたしが大人になると母は、子供の頃はわたしのために言わないでいてくれた夫への不満や愚痴を話すようになった。
女として共感できること、母がつらい思いをずっと1人で耐えていたことを、わたしは大人になってから、はじめて知った。
そして、大人になってからはじめて、父を嫌いだと思った。
わたしが父を嫌いにならなかったのは、わたしの大好きな大好きなお母さんのおかげだった。
わたしが父を嫌いになったのも、大好きなお母さんがきっかけだった。
わたしの家は、お母さんという存在で保たれていたことを、母がいなくなってからはじめて気づいた。
それでもわたしたちは生きている
決定的な出来事があって、父とはもう縁を切ろうとすら思った。
わたしはある面では父の人間性を母以上に深く理解していて、母がいなくなった時にわたしの洞察が正しかったことを残念ながら知ってしまった。
母に一度、「もしお母さんがいなくなったらお父さんはこう言うと思う」と言ったら、「さすがにお父さんもそこまでじゃないでしょう」と笑っていた母の、(どんなにつらい思いをさせられても)夫に対する信頼は踏みにじられた。
母との別れの儀式を済ませてから、わたしは実家に近寄らなかった。
母不在の家で、お母さんがいないことを実感するのが怖かった。
それに、縁を切りたいとすら思った父と何を話すことがあるだろうか?
事務的な用事はメールでやり取りすれば済む話だ。
決定的な出来事のことは互いに触れず、わたしと父は親子っぽく細々とメールのやり取りを続けていた。
わたしが再び実家を訪れたのは、それから半年後のことだった。
実家はきれいに掃除され、でも母がいた頃とは違った。
母不在をとうとう実感したわたしは、「なかなかこれなくてごめん…」と謝りながら、泣いた。母にむかってなのか、父にむかってなのかは自分でもわからなかった。
それから、父ととりとめない話をした。
共通の話題は多くはなかったが、ここでも母がわたしと父の繫ぎ役だった。
母への後悔を共有できるのは父しかいなかった。
「残された家族」という言葉が思い浮かんだ。
わたしたちは、まさに残された家族だった。
わたしの長所でもあるのだが、わたしは怒りや憎しみを持続することができない。
どうしても許せない決定的な出来事を忘れることはできないし、父に対する不信感を拭い去ることもおそらくこの先もずっとできないだろう。
でも、父のことを嫌いだとか憎いと思う感情はなかった。
人間的に尊敬はできないが雑談ができて仕事のできる上司、くらいになっていた。
母は父に対してを憎しみに近い感情を持ちながら遠くへいってしまった。
わたしは困惑した。
母はわたしと父が不仲になることを望んだわけではないが、わたしは父が母を苦しめたことを許せないと思っているし、母の遺志は継ぎたいと思う。
ただ、母の遺志を継ぐということは父に対してなんらかのマイナスの感情を持っていた方が楽なのは確かだった。
わたしはマイナスの感情を持続して持ち続けることもできなければ、父に対して好きとか嫌いとかの感情すら持ち合わせていなかった。
父はわたしの家庭のことやわたしの健康を父親らしく心配してくれたし、わたしも父の健康状態を娘らしく心配し、滅多に頼みごとをしない父に頼まれた用事に応じた。
父に対しても、母に対しても、どうしていいかわからなくなった。
母の気持ちを、遺志を忘れることはできない。
でも、わたし自身は父に対してマイナス感情はないのだ。
わたしたちは生きている。時計の針は動き続けている。
今さらベタベタと仲良くしようとか、失った時間を取り戻そうとか、そんなことはまったく思わない。でも、昔と同じように適度な距離を保ちながらたまに世間話をするのはそんなにいやじゃない。
「残された家族」としていまここにいるのは、わたしと父だけなのだ。
そしておそらく、わたしは父のことを好きなんだと思う。父のすごいところをわたしに教え続けてくれた、大好きな母のおかげで。
父からきたメール
先日、はにゃおさんのこの記事を読んでわたしは泣きそうになった。
親父「いやあ、騙されちゃったよ。でも本当の事じゃなくてよかった。」
わたしには子供がいないが、夫はいる。父親もいる。
逆の立場でわたしはそう言えるだろうか?そしてもし引っかかったのがわたしだった時
夫は、父はそう言ってくれるだろうか?
……あまり自信はなかった。
夫も父も「自分は詐欺にはひっかからないし、ひっかかる人の気が知れない」と思っている。
詐欺にあった人もそう思っていたんじゃないかなってわたしは思う。けれど、その上をいく巧妙な手口だからこそオレオレ詐欺はいくらテレビなどで注意喚起しても減るどころか増えているのだ。
はにゃおさんの記事を読んで、ちょうど実家に行く用事があったわたしは父に、
「わたしの仕事はお金を扱わないし、わたしは使い込もうと思っても使えるお金がないからね。わたしから電話があったら、まずわたしに電話してね」と、はにゃおさんの記事を読んだことを交えながら父に言った。
すると父は、「ぼくは大丈夫だし、そもそも基本居留守で電話でないし、それにもし本当に娘さん(父はわたしのことをこう呼ぶ)本人だったとしても助けないよ」と笑った。
うん、そんな気はしてた。
たぶんわたしがほんとに何かしらのトラブルにあってお金に困ったとしても父は助けないと思う。お金に関してのことは、特に。
それでも、もしかしたら魔がさして(?)父はわたしを助けようと思ってしまうかもしれない。そんな父は見たくない。
頑固な父だからわたしがしつこく説得しようとしたら、ますます話を聞いてくれないと思ったので「そんな気はしてたーwでも一応ね。」と話を終わらせた。
ほんの少しでも、オレオレ詐欺に対して意識がむけばそれでよかったから。
その後はまた雑談に戻り、わたしは実家をあとにした。
翌日、父からメールがきた。
わたしが頼まれごとを済ませたことに対するお礼と、わたしの身体を心配する内容。
そして最後に「詐欺電話の件ですがこれからは合言葉XXXでお願いします」と書いてあった。
XXXは、わたしと父が好きなある食材の名前だった。
わたしから電話をする時の合言葉を決めようと提案したわけではなかった。
届いていた。
お母さん、わたしはやっぱりお父さんが苦手だよ。
でもわたしは、お父さんのこと、父親ってあんまり思えないけど、でもお父さんのこと割と嫌いじゃないかもしれないよ。