2022年陸マイルの旅

2017年から陸でマイルを貯めつつANA隠密修行をしたわたしの趣味の旅行(遠征)、買い物、グルメ、つれづれ日記。

拝啓、雨宮まみ様

「40歳になったら死のうと思っている。」

桐野夏生『ダーク』の有名な冒頭の一文だ。そして、こう続く。「死ぬと決めてからの私は、気持ちが楽になった。」

こう独白した主人公の女探偵は38歳で、わたしは今39歳だ。

でも今日書きたいのはダークの感想じゃない。

昨年40歳で亡くなった雨宮まみさんの、このエッセイのことだ。

大和書房・WEB連載〜40歳がくる!MOB 雨宮 まみ backnumber

今わたしは彼女がこれを書いていたのと同い年で、このエッセイはまるでわたしのことを書いているようで、彼女の書くものの中でいちばん好きだ。

 

雨宮まみを知らない人でも、「こじらせ女子」って言葉は知っていると思う。

彼女が書いた「女子をこじらせて」もまるでわたしのことを書いているのかと思って、読んでいる途中にもう治ったと思っていたはずの自分の古傷がまだ全然かさぶたで、それを無理矢理ひっぺがされたような気持ち悪さで読むのをやめようかと思った。

「こじらせ~」なんて軽々しいものじゃなくて、自己評価が地中に埋まっている女がそこから這い上がるまでの痛々しさと生々しさの記録だった。

読んでて気分が悪くなったのは雨宮まみと内田春菊とマイケルギルモアだけかもしれない。

 

これを言うと友達にぶん殴られるから口にするのはやめたけれど、わたしはかなり昔から自分のゴールは40歳って漠然と思っていた。

もっと昔は30歳って思っていて、さすがに30年だと短いなって思ったから10年延長して40歳って決めた。

だから、本当に不謹慎なのはわかっているけれど誤解を恐れずに言うなら、雨宮さんの訃報を知った時にちょっと羨ましく思った。

彼女の死因は事故で、自殺じゃない。40歳がくる!にも「40歳で人生が始まる」という記事があるように、生きる覚悟を決めたんだろうなって思う。

思ってはいたけれど、自分と重ね合わせてしまうと心のどこかにちょっとは40歳でゴールしてもいいかなって気持ちはあったんじゃないかなって妄想してしまって、手すりを乗り越えずにいけた彼女を羨ましいと思ってしまった。

最高到達点で、楽しいって思えて、見た目もまだ衰えきってない綺麗なうちに幕を引けたらかっこいいのにっていう中2病みたいな理由によって。

 

これは本当に生きるっていうことに対する執着心とか考え方っていうだけで、わたしは今別に死にたいほどつらいことがあるわけでもないし、死にたいと思っているわけでもない。

むしろ40歳が近づいてきたここ数年はとても楽しい。

雨宮さんじゃないけど「私の欲望に、言い訳をしない一年」を過ごしてる。

「本当はあれが欲しかったけど」とか、「本当はあれを書きたかったけど」とか、そういう「本当は」の一切ない世界を生きてみたかった。本当に着たい服を着て、本当に持ちたいバッグを持って、本当に行きたいところに行って、後先なんか考えないで、ただ、今、自分が楽しいこと、夢中になれること、それだけにまっすぐ打ち込むような、あとから考えたら無駄かもしれないようなことでも、今したければそれをする一年を過ごしてみたかった。

「本当は」の一切ない世界に限りなく近い世界に生きていると自分でも思う。

必要だろうが必要じゃなかろうが、したいことをしないと。欲しいものを欲しいと言わないと。手を伸ばさないと。無駄だろうが、馬鹿げていようが、愚かなことであろうが、それをしないと、私は自分の人生をちゃんと生きていると言えない、と強く思った。

刹那的な一年でもいいから、「本当は」のない世界を生きようと決めたのは38歳の時で、お母さんとさようならしてからだった。

その時はまだ雨宮さんのこのエッセイは知らなかったけど、同じ年に同じようなことを心に決めて、そして実際に行動していたことを後から知って、だから余計にこのエッセイが好きになった。

「本当は」が限りなくゼロに近い世界を生きるっていうのは、楽しいだけじゃない。苦しいことも、大変なことも、この歳になってもまだこんな痛い思いするのかってびっくりすることもある。

それでも全てを自分が選んで、自分の人生を生きているっていう実感がある。

自分が着たい服を着て、食べたいものを食べて、行きたいところに行っている。世間からしたらいい歳したBBAかもしれないけど、そんなのどうでもいい。わたしはもっと自由になりたいし、素敵になりたいし、愛されたい。わたしがなりたかったわたしになりたい。自分で選んで自分の人生に責任を負いたい。

雨宮さんじゃないけれど、つまらない女を卒業したというか、つまる女になってるなって思いを味わってる。

長生きすることに対する執着心はないけれど、生きていると実感することに対する執着心は人一倍強いのかもしれない。だから、わたしが日々を渡っていく時の目標は「今日死んでもいいと思えること」だ。悔いを残して明日を迎えないように。

 

若い頃は40歳なんて相当なオトナで、些細なことで泣いたり落ち込んだりなんて絶対しなくて、落ち着いているものだと思ってた。

でも実際わたしがその歳に近づいてきてわかったのは、わたしが想像していたオトナにはわたしは一生かかってもなれっこなさそうってことだった。

わたしは今でも些細なことで泣き、落ち込み、子供のようにワガママを言い、女子高生のように見た目を気にして、そして笑ってる。

 それはきっと、40歳に到達しても変わらないんだろうなって思う。わたしはどうやったってわたしのままだ。

いくつになっても新しい発見があって、新しい出逢いがあって、心が千切れそうなくらい悲しいこともあって、そういうさまざまな出来事に翻弄され続けるんだろうなって思う。

でも40歳が来ることは今のわたしにとって恐怖ではない。

 

小泉今日子さんのエッセイにこんなものがある。

小泉今日子「戦う女 パンツ編」

 これを読んだ時びっくりしてしまったのだけれど、わたしのパンツ遍歴も彼女と似たようなものだ。

このエッセイに、40代になるといろんな呪縛から解き放たれると書いてある。

わたしの年上の友人も、「40過ぎたらいろんなことがラクになるよ」って言っていた。

わたしはまだ40歳にはなっていないけれど、わたしの欲望に言い訳をしない一年をはじめてから、はじめてレースのTバックを買った。

若い頃にTバックを一度だけ穿いた時は心もとなくてすぐに捨ててしまった。

でもそれから20年近く経って穿いてみたらなんとも心地よかった。とっておきの日に穿くと、背筋が伸びるような、わたしに寄り添ってくれるような。わたしに力をくれる。下着はオトナの女の戦闘服なんだと思った。

40代にふさわしい服を着て、40代にふさわしい下着を着る。

 

雨宮さんのことを羨ましく思った。

でもわたしはどうやら雨宮さんに追いつくことはできそうもないし、いよいよ40歳を目前にしたら肩の力が抜けるように40歳への恐怖心みたいなものがなくなった。

ココシャネルも言っていた。

”A woman does not become interesting until she is over 40."

これからもっと、女としての人生が面白くなるなら雨宮さんが体験できなかった40代をわたしは楽しもう。50歳になった時に鏡に映る自分の顔を「これがわたしの功績だ」って胸を張って言えるように。